二人そろって一カ月の長期任務についていた二人が帰ってきたのは、真夜中のことだ。
わたしはもう寝ていたけれど、家の前で止まった車のエンジン音で目が覚めた。
だけど、迎えにでるようなことはしなかった。
仕事帰りの二人は結構気が立っていたり、あるいは疲れていたりするので、昼間ならともかく夜中に戻ってきたときは放っておくことにしているのだ。
これは山本さんが加わる前からのルールで、子どもは夜は寝るものだよというお父さんの言葉を建前に決めた。
建前といっても事実その通りでもあるので、別に無理に出迎えたいわけでもないから、わたしはそのルールをずっと守り続けている。
マフィアという職業は、結構大変なのだ。

再び目を閉じて眠気を引き寄せていると、完全に意識が落ちる直前、音をたてないようにそっと静かにドアが開いた。
きっとお父さんだろう。任務中はよほどのことがない限り連絡は控えることにしているから、お父さんは長期の任務から帰ってくるとまずわたしの安全を確認するのが習慣だ。
べたべたに子ども扱いされるのは困るけれど、こういうふうに気に懸けてもらえるのは正直に嬉しかった。

「おやすみ」

やっぱりお父さんだった。
わたしが起きているのに気付いているのかいないのかはわからないけど、限りなく小さな声でそう言ってぱたんとドアが閉められる。
わたしの意識はそのまま闇に溶けた。





「おはよ、。一カ月元気にしてたか?」

翌朝リビングへいけば、キッチンに立った山本さんがいつも通りの笑顔で迎えてくれた。

「うん、何も問題はなかったよ」

少しばかり喉がかわいていたのでコップに水を汲んで飲み干す。
隣でトントンとリズムよく包丁を動かしていた山本さんが、何かをつまんであーんと言ってきた。
言われた通りに口を開ければ、口の中に甘酸っぱい味が広がる。
わたしが昨日買ってきたリンゴだ。
見れば、八等分ほどにされたリンゴはうさぎ型に切られている。
山本さんは結構料理が上手い。実家が寿司屋だったから得意なのだそうだ。

「おはよう」

山本さんがふたつめのリンゴのかけらをわたしの口に放り込もうとしたところでお父さんが現れた。
山本さんの指からリンゴをもらうわたしをみて餌付けみたいだね、と目を細める。
おはよ、ヒバリと返した山本さんはもうひとかけらを掴むと、ヒバリさんの口元に持って行った。

「ヒバリ、痛ぇって」

言葉の割には全然痛がっていない顔で山本さんはお父さんの口から指を引き抜いた。
どうやらお父さんはリンゴと一緒に山本さんの指まで口に入れて、ついでに指を軽く噛んだらしい。
凝視するのもへんなので、わたしは火にかけてあったお湯が沸騰したことをいいことに視線を外した。
火を止めてポットにお湯を注ぐわたしの後ろでもうひときれをねだったらしいお父さんと山本さんの新婚夫婦かよと突っ込みたくなるようなやりとりは続く。
二人とも、朝から元気だ。

どことなく満足げな二人と一緒に久々の三人での食事を取る。
その後は三人ともリビングでまったり過ごして、久々にこの家に人の気配がすることに少し安堵している自分がいた。
この生活が始まってもうずいぶんとたつけれど、どうやらわたしは三人で一緒に住むというこの環境をとても気に入っているようだった。
お父さんと二人でも不自由はなかったけれど、山本さんがいることで空気が柔らかくなったような気がする。
わたしは二人がいないと少しばかり寂しいと思う程度には、この環境に依存しているのだ。

お昼ご飯を山本さん手作りのグラタンで済ませると、二人は本部に報告があるからといってブラックスーツをしっかり着こなしてまた出かけていった。
当然家に残ったわたしは食べ終えた皿を洗って、水切りカゴへと入れる。
軽く水気をとっていつもの場所にしまって、それから洗濯。
お父さんと二人で住んでいたときの家事は基本的にわたしの仕事だったけど、今は家事が趣味らしい山本さんがいるときはほとんど山本さんに任せっきりだ。
別に家事が嫌いなわけではないけれど、オレがいるときは他の好きなことやってていーんだぜと言って笑った山本さんの言葉に甘えさせてもらっている。
たぶん山本さんは、そうやってわたしをかわいがるのが好きなのだ。
洗濯といってもほとんど自分のぶんしかなかった。
仕事で一度着たスーツは二人とも毎回毎回全て捨てるのが習慣らしく、昨晩着て帰ってきたスーツはとっくにゴミ袋にまとめられている。
少量の服はすぐに干し終えて、まだおやつの時間にもなっていないというのに暇になってしまった。

「出かけようかな」

テーブルの上に緑色の本を一冊置いておいた。
緑色の本は散歩や買い物、青色の本は町から外に出るとき、赤い色の本は緊急事態を表すメッセージ。
下手に書き置きを残すと何があるかわからないので、こういうふうにしている。

扉にしっかりと鍵をかけて大通りへとでる。
澄んだ空が綺麗だった。






わたしたちが今住んでいるのは、海に面した小さな町だ。
リゾート地にはなっていないものの簡単に整備された砂浜が長く続いていて、わたしは暇さえあればそこに通うのが日課になっている。

しばらく前に誕生日プレゼントとして山本さんにもらったカメラを持って、特に目的もなくぶらぶらと歩く。
ちなみにその時お父さんがくれたのは銃の内蔵された 小型のナイフで、少しばかり山本さんを呆れさせた。
でもとても使い勝手のいいものなので今では常に持ち歩くようにしている。
やっぱりわたしはお父さんと嗜好がよく似ているようだ。

「あれ、カナタ?」

ワン!という大型犬の声と同時に少年の声が聞こえて振り向けば、数メートル後ろに金髪の少年がいた。
その隣のゴールデンレトリバーがダッシュしてこちらにやってきたけど、押し倒されてはたまらないので直前で回避した。
少し不満げな顔をした犬はじゃれるようにしっぽをばたばたとぶつけてくる。
わしゃわしゃとあたまをかきまぜると、満足げな顔をしてワォンと鳴いた。

「久しぶり、ジュニア。二週間ぶりくらい?」
「だな」

太陽光を受けてきらきらと輝く金髪と、紫色の瞳。
年齢よりは大人びたどこか甘い顔立ちの少年は私の持つカメラに興味津々でなめようとする愛犬をどうにか引き離すと、手に持っていたフリスビーを遠くへと投げた。
ゴールデンレトリバーはその体躯を生かすような早さでフリスビーを追いかけていく。
その後ろ姿を見送って、元気だった?と彼は笑顔を見せた。

このジュニアという年上の少年とは、少し前にこの海岸で出会った。
学校を抜け出してきたんだけど腹減ったと言った少年にピザをおごってあげたのが始まりで、それ以来ときたまここで出会うようになった。
名前を聞いてもジュニアと答えるだけで本名を言おうとはしないので、わたしも言っていない。
カナタというのはわたしの名前候補のひとつで、もし男の子だったらこれになってたかもねとお父さんが言っていたのでなんとなく使ってみた。
漢字で書くと、彼方。
確かに字面は男性名の方がぴったりなので、ローマ字表記で使っている。
音は結構気に入っているのだ。

彼は今日、片手ににバスケットを持っていた。
おやつにこれ食おうぜ、と言う。
なんでも今日は学校がなかったので、息抜きに車をだしてもらって犬と遊びにきたらしい。
車はあそこ、と彼が指さした方を見れば、黒塗りの背の低い車が止まっていた。
どう見ても高級車、そしてマのつく裏のひとたちと関係のありそうな雰囲気の車だ。
ジュニアが大きく手をふると、車にもたれかかって煙草を吸っていた黒いスーツの五十過ぎと思われる男性が腕をあげて応える。
なるほど、だから本名を言わなかったのかとわたしは納得した。
身のこなしがどうみても戦いを仕込まれた人間の動きだったのである程度予想はしていたけれど、きっとどこかのファミリーの御曹司に違いない。
偽名を名のっておいてよかったと思った。

「カナタは学校とか行かねーの?」
「うん。お父さんに全部教えてもらってるから」
「へー。お前の父さんすげぇのな」

オレの父親なんかそういうことは全然だぜ、とジュニアは言った。
その瞳がどこか遠くを見るように細められて、内包物のない澄んだ紫色の中には複雑な感情が渦巻いている。
アメジストと藤色の中間のようなその色はとても綺麗だ。
わたしは漆黒と形容される瞳なので外国人のカラフルな瞳を見るのが好きなのだけど、ジュニアの瞳は今まで見てきた中でも一級品だと思った。

「お父さん、嫌い?」
「いいや、全然。むしろ尊敬してる」

息子のひいき目抜きにしてかっこいいんだぜ、とジュニアは誇らしげに笑った。
その笑顔に嘘はないので、彼は本当に父親が好きなのだろう。
わたしもお父さんは大好きだから、わかる。
でも、と表情を曇らせてジュニアは続けた。
父さんの仕事を継ぐのはちょっと嫌だな、と。

「どうして?」
「んー。なんていうか、積極的になりたいとは思わねーんだ。むしろ放り投げたいっつーか」

喜んでなりたいとは思わない。
そう言った彼の横顔は思ったよりも大人の顔をしていた。
きっと彼は、継ぎたくないけれど継がざるを得ないという自分の運命を悟ってしまっているのだ。
そして、完全にではないにせよ半分は受け入れている。
学校を抜け出したり、車をださせてまでこんなところに遊びに来るのは彼なりの最後の抵抗なのだろうと思った。
‥‥やっぱりマフィアかな。
あんまり深く関わらない方が良いかもしれない。
もしお父さんと敵対してる勢力だったら、まずいことになる。
わたしはお父さんの足を引っ張りたくはなかった。

「カナタは」
「え?」
「カナタのお父さんはどんな人?」

拾い上げた貝殻を片手で弄りながらジュニアは聞いてきた。
さて、どう答えるべきか。
いや、別に詳しく言ってやる必要はないのだから、適当にあたりさわりのないことを言って誤魔化しておけばいい。

「一般的な父親とは、だいぶかけ離れてるひと。でも、ちゃんと愛してくれるひと」
「‥‥なんか、かっこいいな、それ」

ジュニアは満面の笑顔で――太陽のような笑顔で、笑った。
海が背景だからだろうか、その笑顔は眩しくて、わたしは目を細める。
体つきはまだ少年のものだが、確かに男らしさを備えた笑み。
不覚にも、どきりとしてしまった。

「カナタ?」
「‥‥なんでもない」

首を傾けたジュニアがきょとんとした目で見つめてくる。
顔を横にふって気にしないでと言えば、何かを考えるように急に押し黙った。
今度はわたしが頭にはてなを浮かべる番で、次にジュニアが何かを言うまで待つことにした。

「カナタ」
「なに?」
「キスしていい?」
「え?」

言葉の意味が瞬時に理解できなくて聞き返したときには、既に頬に柔らかい感触があった。

「‥‥っ!?」

びっくりして身体を引けば、それだけでジュニアはあっさりとはなれる。
照れたようにぽりぽりと頬をかいて、ごめん、と言った。

「うん、急にごめん。驚いたろ。ごめんな」

ごめんなんて言われても。
ほのかに熱をもった頬を抑えながら、わたしはただ絶句していた。


ある日の午後 side


2008.02.24