チャンの朝は早い。 今でこそ一般的に早起きとされる時間帯よりも一時間ほど前に起床する程度の早さだけど、ミルフィオーレに来たばかりの頃の彼女はいつも午前三時前には目覚めていた。チャンは僕と一緒に仕事をしているわけだから、僕と同じくらいの時間帯に寝ているはずだ。だというのにそんな時間に起きてしまうのはやっぱり本人も少々体力的に辛かったらしくて、最近ではそう早くに覚醒することも少なくなっていたのだけど、今朝はもう目覚めてしまったらしい。なんでわかるのかというと、彼女はいま、僕の腕の中にいるから。起きているときと寝ているときのチャンの気配は全然違う。寝ているときはそれこそ造花のように静かすぎる彼女が目覚めた瞬間に、ぱっと鮮やかな花が開いたような強烈な存在感が僕を微睡みから引き上げるのだ。 「オハヨ、チャン。今日ははやいねぇ」 腕の中に笑いかければ、チャンは朝の挨拶を口にしながら、ちょっとばつが悪そうな顔をした。どうやら彼女は自分が早く目覚めすぎてしまうことで僕(より正確に言えば、たっぷりと睡眠時間をとらなくてはいけないはずのボス)も起こしてしまうことを少し申し訳なく思っているらしい。まぁ確かに眠いけど、二度寝するなり昼寝するなりすればいいだけだからたいした問題じゃないんだけどなぁ。 「いつも思うんだけど、」 「うん?」 「どうしてわたしが起きるとあなたもすぐに目覚めるの?」 起こすようなことをした覚えはないんだけど、と彼女は続ける。 うーん、だから、ぱっと花が開くんだってば。 「チャンが起きる瞬間ってねぇ、ぱっと花がひらいたような感じがするんだよ」 「…寝ぼけてる?」 「んーん。バッチリ起きてるよ」 さらりと額を流れる黒髪をよけて、軽くキスを落とす。じとっと半眼になって僕の顔を見つめていたチャンは、ひとつ大きなため息を吐き出した。それが僕の寝間着越しに肌をさらさらと撫でていって、なんだかくすぐったい。 「チャンこそ、なんでこんな朝早くに起きちゃうの?」 「前の仕事だと午前三時前には起きる必要があったから」 「はやいねぇ」 「護衛のための隠密が護衛対象より遅く起きてどうするの」 呆れたような口調でチャンは言う。本当はあんまり彼女の過去を探ることは許されていないし、チャンもあまり語りたがらないのだけど、ときおり過去を懐かしむように少しだけ話してくれることがある。いまもそんな気分のようで、僕の腕に頭を乗っけながらどこか遠くを見つめるように言った。 「えらく早くに起きて毎日殺人的なまずさの朝食を作るようなひとだったから。唯一彼と朝食を共にする権利のあったわたしと彼の息子はわざわざ早起きして産業廃棄物を食べさせられていたってわけ」 「迷惑なひとだねぇ」 「それをあなたが言う?」 「えー」 ぐりぐりと彼女の肩口に頭を押しつけても、チャンはあんまり暴れなかった。いまでこそこうして大人しく抱き枕になってくれている彼女だけど、ここに至るまでの道のりはものすごく長かった。まずは触れあうところから始まり、抱き寄せても肘鉄を喰らわなくなり、頬や額へのキス。ディープキスはあんまり好きじゃないみたいだけど(僕の技術の問題じゃなくて、純粋に好きじゃないみたい)、軽い口づけなら大丈夫だし、最近は抱き枕くらいまでなら毎晩でも許してくれるようになった。その先は、まぁ、うん。たまに、ね。 「白蘭。二度寝するの、それとももう起きる?」 「んー、どうしよっかなぁ」 チャンは、普段は僕をボスと呼ぶ。僕に呼びかけるときも、他人と話しているときも。 だけど、こうして二人っきりのとき。ベッドの中でだけは、きちんと名前で呼んでくれる。 だから、もうちょっとこのままでもいいよね? 「誰かが起こしにくるまでおしゃべりしよう」 「おしゃべりはいいけど、今日は忙しいんだから起床時間にはちゃんと起きて」 「えー」 「じゃあいますぐ起きる?」 「えーえーえー」 「なら、我慢しなさい」 「うん、わかった」 素直に頷いて、僕はチャンの頬に手を伸ばす。 真っ白く柔らかな肌に指先を滑らせて、僕は僕の幸せを噛みしめた。 早朝の至福
ちゃんがミルフィオーレに来てかなり経ったあたりのお話。 ここまでくると、世継ぎは大丈夫かとハラハラしていた周囲とじいさん連中にあれを早くなんとかしろとせっつかれてた正ちゃんの腹にやっと平穏が訪れます。でもこの後、結婚するしないだのでまたいろいろ一波乱があって、ストレスで正ちゃんぶっ倒れ事件とかが勃発。 まだまだ道のりは長い(笑) ちなみに、この朝は事後じゃないですよ。 2009.08.17
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